フリーメイソンとは何か – その歴史と理念
近年、数々の映画やドキュメンタリー番組で取り上げられることの多いフリーメイソン。秘密結社として知られるこの団体は、日本の戦争とどのような関わりがあったのでしょうか。その謎に迫る前に、まずはフリーメイソンそのものについて理解を深めていきましょう。
フリーメイソンの起源と世界的な拡大
フリーメイソン(Free Mason)とは、直訳すると「自由な石工」を意味します。その起源は中世ヨーロッパの石工組合にまで遡ります。大聖堂や城などの建築に携わる職人たちが、技術や知識を守り、互いに助け合うために結成した同業者組合が始まりとされています。
公式的には1717年にイギリスのロンドンで4つのロッジ(支部)が合併し、「グランド・ロッジ・オブ・イングランド」が設立されたことが近代フリーメイソンの始まりとされています。その後、フリーメイソンは世界各地に広がっていきました。
フリーメイソンの世界的拡大の主な時期
- 18世紀初頭: イギリスで公式組織化
- 18世紀中期: フランス、アメリカなど欧米各国への拡大
- 19世紀: アジアや南米などへの進出
- 20世紀: 世界的ネットワークの確立

特に注目すべきは、アメリカにおけるフリーメイソンの影響力です。アメリカ独立宣言の署名者56人のうち、少なくとも9人がフリーメイソンのメンバーであったと言われています。さらに、ジョージ・ワシントン初代大統領をはじめ、多くの大統領や政治家がフリーメイソンに所属していました。
フリーメイソンの基本理念と特徴
フリーメイソンは単なる社交クラブではなく、独自の哲学と理念を持つ団体です。その核心には「自己啓発」と「博愛」という理念があります。
フリーメイソンの主な理念は以下の通りです:
- 博愛精神: すべての人間は平等であり、互いに助け合うべきという考え
- 道徳的生活の追求: 高い倫理観と道徳的価値観に基づいた生活
- 知識と真理の探求: 科学や哲学を通じた知識の獲得
- 宗教的寛容: 特定の宗教に偏らない普遍的な信仰観
この理念からもわかるように、フリーメイソンは啓蒙思想と深い関わりを持っています。「自由・平等・博愛」というフランス革命のスローガンにも、フリーメイソンの影響が見られるとする歴史家もいます。
会員資格と秘密結社としての側面
フリーメイソンに入会するためには、いくつかの条件があります:
- 成人男性であること(一部の国や支部では女性も受け入れる場合あり)
- 「至高の存在」を信じること(特定の宗教は問わない)
- 良い評判を持つ人物であること
- 自発的に入会を希望すること
入会後は「見習い」「職人」「親方」という3つの階級(ディグリー)を経て、組織内で段階的に上昇していきます。各階級への昇格には特定の儀式や試験が伴い、その詳細は部外者には明かされません。
こうした秘密主義的な側面が、フリーメイソンに対する様々な陰謀論を生み出す要因となりました。しかし、フリーメイソン側は「秘密」ではなく「プライベート」な団体であると主張しています。実際、多くのフリーメイソン関連の書籍や情報は一般にも公開されています。
象徴主義と儀式の重要性
フリーメイソンの特徴として欠かせないのが、豊かな象徴主義です。建築や幾何学に関連する道具(コンパス、定規など)が象徴として多用され、それぞれに深い意味が込められています。
主なフリーメイソンのシンボルと意味
シンボル | 意味 |
---|---|
コンパスと直角定規 | 道徳的境界線と正確な行動指針 |
「G」の文字 | 幾何学(Geometry)または神(God)を表す |
アカシアの枝 | 不死と再生 |
ソロモン神殿 | 精神的完成と秩序 |
白い手袋 | 純粋さと清らかさ |
儀式においては、古代エジプトやヘブライの伝統を取り入れた要素も多く、神秘的な雰囲気を醸し出しています。特にソロモン王の神殿建設にまつわる伝説は、フリーメイソンの儀式や教えの中核をなしています。
このような象徴主義と儀式が、フリーメイソンの結束力と独自性を高める要因となっているのです。
日本におけるフリーメイソンの足跡
フリーメイソンが世界的に広がる中、日本にもその波は訪れました。日本における活動は思いのほか古く、日本の近代化と共に歩み始めていたのです。それでは、この秘密結社は幕末から明治にかけての激動の時代、どのように日本に足跡を残したのでしょうか。
幕末から明治期における日本進出
フリーメイソンが日本において活動を始めたのは、意外にも幕末期にまで遡ります。1862年、横浜外国人居留地に「スフィンクス・ロッジ」が設立されたのが最初の記録とされています。このロッジは当時横浜に滞在していたイギリス人やアメリカ人の外交官、商人らによって作られました。
しかし、本格的な活動が始まったのは明治時代に入ってからでした。1872年には横浜に「横浜ロッジNo.1092」が設立され、外国人を中心とした活動が開始されました。これは英国のグランド・ロッジから正式に認可された日本初のロッジとなります。

明治期の主なフリーメイソン・ロッジ設立
- 1862年:スフィンクス・ロッジ(非公式)
- 1872年:横浜ロッジNo.1092(英国系)
- 1879年:東京ロッジNo.2015(英国系)
- 1884年:神戸ロッジNo.2132(英国系)
- 1887年:養和ロッジNo.640(スコットランド系)
これらのロッジは当初、日本に駐在する外国人のためのコミュニティとしての性格が強く、日本人の参加は限られていました。しかし、日本の国際化が進むにつれ、徐々に日本社会にも影響を及ぼすようになっていきました。
特筆すべきは1879年に設立された東京ロッジです。これは首都での初めてのロッジであり、政治的・文化的な中心地に設立されたことで、その後の日本におけるフリーメイソンの活動の拠点となりました。
日本人初の会員と国内ロッジの設立
日本人として初めてフリーメイソンに加入したのは、明治政府の高官・政治家たちでした。その先駆けとなったのが井上馨(いのうえかおる)です。井上は1873年にロンドン滞在中に「フリーメイソンリー・ロッジ」に入会したと記録されています。
その後、伊藤博文や大隈重信など、明治期の著名な政治家たちもフリーメイソンの門をたたいたとされています。彼らは西洋の進んだ思想や文化を学ぶ一環として、フリーメイソンに関心を持ったと考えられています。
明治時代の日本人フリーメイソン会員(推定・伝説を含む):
- 井上馨:初代外務大臣、大蔵大臣
- 伊藤博文:初代内閣総理大臣
- 大隈重信:内閣総理大臣、早稲田大学創設者
- 高橋是清:大蔵大臣、日本銀行総裁
- 新渡戸稲造:教育者、「武士道」の著者
しかし、これらの人物がフリーメイソンに所属していたという確かな証拠は限られており、一部は後世の伝説や噂である可能性もあります。特に井上馨以外の政治家については、歴史学者の間でも見解が分かれています。
外国人会員による活動と影響
日本在住の外国人フリーメイソン会員の活動も見逃せません。彼らは単に自国の文化を楽しむだけでなく、日本の近代化にも一定の影響を与えていました。
例えば、横浜ロッジの創設メンバーの一人、アレキサンダー・シボルトは、日本の外交顧問として明治政府に仕えていました。彼の父パーデル・シボルトは有名な日本研究者です。また、明治期の英語教育に貢献したアメリカ人教師のウィリアム・クラークも、フリーメイソンのメンバーであったとされています。
これらの外国人会員は、教育、商業、外交など様々な分野で活躍し、日本と西洋の架け橋となりました。彼らの影響力は直接的なものもあれば、間接的なものもありましたが、確実に日本の近代化の一翼を担っていたと言えるでしょう。
日本社会におけるフリーメイソンの受容と誤解
フリーメイソンが日本社会にどのように受け入れられたかは、複雑な問題です。明治初期においては、西洋の進んだ文化の一つとして、知識層の間で一定の関心を集めました。しかし、その秘密主義的な性格から、一般の日本人にはミステリアスな存在として映ったことでしょう。
大正から昭和初期にかけては、世界的な反フリーメイソン感情の高まりと共に、日本でも様々な誤解や偏見が広がりました。特に1930年代以降、軍国主義の台頭と共に、フリーメイソンは「ユダヤ資本」や「国際陰謀」と結びつけられ、批判の対象となっていきました。
日本社会におけるフリーメイソンへの主な誤解:
- 国際的陰謀を企てる秘密結社
- キリスト教の一種または異端的宗教団体
- ユダヤ人の世界支配を目指す組織
- 西洋の帝国主義の先兵
こうした誤解は、当時の日本が抱えていた西洋に対する複雑な感情(憧れと警戒)を反映したものでした。また、欧米からもたらされた反フリーメイソン・プロパガンダが、日本独自の解釈を加えて広まったという側面もあります。
これらの誤解は、後に日本がアジア・太平洋戦争へと突き進む過程で、反米英感情と絡み合い、より深刻な形で表面化していくこととなります。
日本の戦争とフリーメイソン – 陰謀論を超えて
歴史的な転換点となった日本の戦争において、フリーメイソンはどのような立場にあったのでしょうか。陰謀論ではなく、歴史的事実に基づいて検証していきましょう。日露戦争から太平洋戦争まで、その関わりを読み解いていきます。
日露戦争時のフリーメイソンの動き
1904年から1905年にかけて行われた日露戦争は、日本が初めて西洋列強に勝利した戦争として知られています。この時期、日本とロシア双方にフリーメイソンの会員が存在していました。興味深いことに、当時のロシアにおいてもフリーメイソンは政治的影響力を持っていたとされています。
日露戦争においてフリーメイソンが果たした役割については、いくつかの興味深い事例が報告されています:
- 戦争資金調達への関与: 高橋是清(日本銀行総裁、後の首相)がロンドンで戦争資金の調達に成功した背景に、フリーメイソンのネットワークが関与していたという説があります。高橋自身がフリーメイソンであったという確証はありませんが、少なくとも外国のフリーメイソン会員との接点はあったとされています。
- ポーツマス講和会議: 日露戦争を終結させたポーツマス講和条約(1905年)の締結に、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領(フリーメイソン会員)が仲介役を果たしました。
- 国際的評価の向上: 欧米のフリーメイソン会員の中には、「アジアの小国」が西洋大国に勝利したことに驚き、日本への関心と評価を高めた者も少なくありませんでした。

しかし、これらの事例から「フリーメイソンが組織的に日本を支援した」と結論づけるのは早計です。むしろ、個々のフリーメイソン会員が自国の国益や個人的判断に基づいて行動した結果と考えるべきでしょう。
日露戦争時の日本とフリーメイソンの関係に関する主な見解
肯定的見解 | 否定的見解 |
---|---|
国際金融ネットワークを通じた支援があった | 具体的な証拠が乏しく、後付けの解釈に過ぎない |
英米のフリーメイソン会員が日本に好意的だった | 英米の対日政策はフリーメイソンよりも国益に基づいていた |
日本の近代化を評価する潮流があった | 組織的な支援ではなく個人的な評価に留まる |
日中戦争・太平洋戦争とフリーメイソン
1931年の満州事変から1945年の敗戦までの15年戦争において、フリーメイソンと日本の関係は複雑な様相を呈しました。この時期は世界的にもナショナリズムの高まりと共に、フリーメイソンへの批判や弾圧が強まった時代でした。
1938年、内務省警保局は「秘密結社禁止法」を適用し、日本国内のフリーメイソン・ロッジを閉鎖しました。この措置は、当時の日本政府がフリーメイソンを「反日的」あるいは「敵性」と見なしていたことを示しています。
特に注目すべき事実として、1941年のパールハーバー攻撃直前に、日本の諜報機関がフリーメイソンに関する情報収集を強化していたことが挙げられます。これは「米英の背後にフリーメイソンの影響力がある」という当時の認識を反映したものでした。
軍部とフリーメイソンの関係性
日本軍部、特に陸軍内の一部勢力は、フリーメイソンを敵視する傾向がありました。彼らの認識には以下のような特徴が見られます:
- 反西洋的イデオロギー: 「欧米帝国主義の手先」としてフリーメイソンを位置づける
- 陰謀論的発想: 世界支配を目論むユダヤ人とフリーメイソンを結びつける
- 大陸浪人の影響: 中国大陸で活動した右翼活動家たちがもたらした情報
- ナチスドイツの反フリーメイソン・プロパガンダの影響
1942年に刊行された陸軍省新聞班の冊子「フリーメーソンの正体」では、フリーメイソンを「ユダヤ国際金融資本の手先」として描き、「東亜新秩序」の敵として位置づけています。
一方で、海軍や外務省内には、より冷静にフリーメイソンを見る視点も存在していました。特に国際経験の豊富な外交官や海軍高官の中には、フリーメイソンへの過度な敵視が国際関係を悪化させると危惧する声もありました。
国際フリーメイソン組織の日本に対する姿勢
戦争期間中、各国のフリーメイソン組織は日本に対してどのような態度を取っていたのでしょうか。
アメリカやイギリスのフリーメイソン組織は、基本的に自国の戦争努力を支持する立場を取りました。これは彼らの「愛国主義」の表れであり、組織として日本に対する特別な政策を持っていたわけではありません。
具体的には、アメリカのフリーメイソン組織は戦時国債の購入を推奨したり、会員に兵役を奨励したりしています。また、イギリスのフリーメイソンもチャリティ活動を通じて戦争遂行を支援しました。
しかし、興味深いことに、中立国のスウェーデンやスイスのフリーメイソン組織は、戦争中も日本を含む交戦国との非公式な接触を維持していたという報告もあります。これは戦後の関係修復を見据えた動きであったと考えられています。
重要なのは、フリーメイソンが単一の意思決定機関を持たない分散型組織であるという点です。それぞれの国や地域のロッジが独自の判断で行動していたため、「フリーメイソンの対日政策」というものを一括りに語ることはできません。
フリーメイソンをめぐる陰謀論と現実
フリーメイソンと日本の戦争の関係を語る上で避けて通れないのが、様々な陰謀論の存在です。特に戦前・戦中期に広まった「フリーメイソンによる世界支配」の説は、当時の日本の対外政策にも影響を与えました。しかし、これらの陰謀論はどこまで事実に基づいているのでしょうか。歴史的事実と照らし合わせて検証していきましょう。
世界支配をめぐる陰謀論の検証
フリーメイソンに関する最も広く知られた陰謀論は、「彼らが世界の政治・経済を秘密裏に操っている」というものです。日本においても、特に1930年代から40年代にかけて、この種の言説が広まりました。
当時流布された主な陰謀論は以下のようなものでした:
- 「一ドル紙幣にフリーメイソンのシンボルが描かれているのは、彼らがアメリカ経済を支配している証拠だ」
- 「世界の戦争はすべてフリーメイソンとユダヤ金融資本が仕組んだものだ」
- 「西洋列強の植民地政策はフリーメイソンの世界制服計画の一環だ」
- 「日本の欧米化政策はフリーメイソンに所属する政治家によって進められた」
これらの陰謀論が広まった背景には、当時の国際情勢への不安や、複雑化する世界を単純な「敵vs味方」の構図で理解したいという心理があったと考えられます。また、ナチスドイツからもたらされた反ユダヤ・反フリーメイソンのプロパガンダも影響していました。

陰謀論と史実の比較
陰謀論 | 歴史的事実 |
---|---|
フリーメイソンが世界金融を支配 | 会員に銀行家や実業家が含まれることはあるが、組織的な金融支配の証拠なし |
戦争を仕掛けて利益を得る | 多くのフリーメイソン会員が戦争で命を落としており、戦争による利益は証明されていない |
単一の世界政府を目指している | フリーメイソンは分散型組織で、統一的な政治目標を持っていない |
日本侵略の先兵 | むしろ当時の会員には親日的な人物も多く、組織的な反日政策はなかった |
歴史学者や社会学者によると、こうした陰謀論は「単純な因果関係の中に複雑な社会現象を位置づけたい」という人間の心理的欲求から生まれるとされています。不確実性が高い時代には特にこうした傾向が強まります。
戦争指導者とフリーメイソンの関連性
日本の戦争指導者たちは、実際にフリーメイソンとどのような関係にあったのでしょうか。
興味深いことに、日本の主要な戦争指導者の中に、確実にフリーメイソンに所属していたという証拠がある人物はほとんどいません。東条英機をはじめとする軍部の中心人物たちは、むしろフリーメイソンに対して否定的な見方を持っていたとされています。
戦前の政治家や軍人の中には、若い頃に海外留学中にフリーメイソンと接点を持った可能性のある人物はいますが、積極的な会員だったという確かな証拠は乏しいのが現状です。
一方、連合国側の指導者については、フランクリン・D・ルーズベルト米大統領やウィンストン・チャーチル英首相などがフリーメイソンのメンバーであったことが知られています。しかし、彼らの戦争指導がフリーメイソンとしての立場に基づいていたという証拠はなく、あくまで国家指導者としての判断だったと考えるのが妥当です。
戦時中の主要指導者とフリーメイソンの関係
- 日本側: ほとんど関係なし、むしろ敵視
- アメリカ側: ルーズベルト大統領などがメンバーだが、政策への直接的影響は不明
- イギリス側: チャーチル首相を含む複数の閣僚がメンバー
- ドイツ側: ナチス政権下でフリーメイソンは禁止・弾圧の対象
資料から見る実際の影響力
戦時中のフリーメイソンの実際の影響力を示す一次資料は限られています。しかし、いくつかの興味深い史料が存在します。
例えば、1942年に日本の陸軍省情報部が作成した「フリーメーソン研究資料」には、アメリカやイギリスの政治・軍事指導者とフリーメイソンの関係が詳細に調査されています。この資料は、日本軍がフリーメイソンを「敵国の背後にある力」として認識していたことを示しています。
一方、アメリカのフリーメイソン組織の記録によれば、戦時中も通常の慈善活動や社会奉仕を継続していたことがわかります。特別な対日政策を打ち出した形跡はなく、むしろ会員の戦争協力(兵役や国債購入など)を促進する活動が中心でした。
主な一次資料とその示唆
- 日本陸軍情報部資料:フリーメイソンを敵視する傾向
- 米国フリーメイソン機関誌:通常活動の継続と戦争協力の奨励
- 戦後GHQ文書:日本のフリーメイソン弾圧への言及
- 外交文書:特にフリーメイソンに言及した政策決定の証拠はない
これらの資料から見えてくるのは、フリーメイソンが戦争に「秘密裏に」影響を与えたという証拠は乏しいということです。むしろ、各国のフリーメイソン組織はそれぞれの国の戦争政策に沿って行動していたと考えるのが自然でしょう。
歴史研究におけるフリーメイソン評価の変遷
フリーメイソンと日本の戦争の関係についての学術的評価は、時代と共に変化してきました。
戦前・戦中期(1930年代〜1945年) この時期は、フリーメイソンを「敵性団体」「国際陰謀組織」として捉える見方が公式見解として広く受け入れられていました。学術研究というよりは、イデオロギー的な批判が中心でした。
戦後占領期(1945年〜1952年) GHQの影響下で、フリーメイソンへの批判的研究は抑制されました。むしろ、戦前の「反フリーメイソン」的言説が批判の対象となりました。
冷戦期(1950年代〜1980年代) この時期は、アカデミックな研究としてのフリーメイソン研究が始まりました。しかし、依然として資料へのアクセスが限られていたため、実証的な研究は少数にとどまりました。
現代(1990年代以降) 資料公開の進展と共に、より実証的かつ客観的なフリーメイソン研究が可能になりました。日本と世界のフリーメイソンの関係についても、陰謀論的アプローチではなく、社会史・文化史的なアプローチからの研究が進んでいます。
近年の研究では、「フリーメイソンが日本の戦争に重大な影響を与えた」という説は否定的に見られています。むしろ、当時の日本における「フリーメイソン敵視」の心理や社会的背景を分析する研究が主流となっています。
戦後日本とフリーメイソン – 新たな関係構築

1945年8月15日、日本は連合国に降伏し、長い戦争に終止符が打たれました。これに伴い、日本とフリーメイソンの関係も大きく変化することとなります。戦前は敵視されていたフリーメイソンが、占領下の日本でどのように再び活動を始め、現代日本との関係を構築していったのかを見ていきましょう。
GHQとフリーメイソンの関係
1945年9月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本占領が始まりました。GHQの幹部の中には、フリーメイソンのメンバーも含まれていました。特に、マッカーサー元帥自身がフリーメイソンの33階級(最高位)を持つ会員であったことは広く知られています。
GHQは、戦前日本で行われたフリーメイソン弾圧を、宗教的自由に対する侵害とみなし、早期に是正するよう指示しました。1946年3月には、横浜ロッジの再開が許可され、主に在日アメリカ人やイギリス人を中心に活動が再開されました。
占領期におけるフリーメイソン関連の主な出来事
- 1945年10月:GHQが「秘密結社禁止法」の廃止を指示
- 1946年3月:横浜ロッジが再開
- 1947年:東京ロッジが再開
- 1949年:日本人向けの「極東ロッジ」が設立を許可される
- 1951年:サンフランシスコ講和条約の締結者にフリーメイソン会員が含まれる
GHQの政策担当者の中には、フリーメイソンの民主主義的理念が戦後日本の民主化に役立つと考える向きもあったようです。しかし、フリーメイソンの再建が占領政策の主要な目的だったという証拠はなく、あくまで宗教的・集会的自由の回復という文脈で行われたと考えるのが妥当でしょう。
一方で、GHQの一部スタッフの間では、戦前の「反フリーメイソン」的著作や教材の調査も行われました。これは戦前の超国家主義的傾向の調査の一環として行われたものでした。
戦後の日本社会におけるフリーメイソンの位置付け
占領期を経て、フリーメイソンの活動は日本において公に認められるようになりました。しかし、一般の日本人にとって、フリーメイソンは依然として馴染みの薄い存在でした。
戦後の日本社会におけるフリーメイソンは、主に以下のような位置づけで認識されていました:
- 外国人コミュニティの社交団体: 在日外国人、特に欧米人のネットワークとしての側面
- 国際交流の場: 外国と日本をつなぐチャンネルの一つ
- 高度成長期の「国際化」の象徴: 1960年代以降、「国際人」を目指す日本人の関心の対象に
- 神秘的な団体: 依然としてメディアなどでは神秘的・秘密主義的な団体として描かれることも
戦後の経済成長と国際化に伴い、フリーメイソンへの見方も徐々に変化していきました。特に1970年代以降、「国際派」のビジネスパーソンや知識人の中には、フリーメイソンに入会を希望する日本人も増えていきました。
戦後日本におけるフリーメイソン関連書籍の傾向変化
時期 | 主な傾向 |
---|---|
1945〜1960年 | 戦前の偏見を引きずりつつも、中立的な紹介が徐々に増加 |
1960〜1980年 | 「謎の国際団体」「西洋の秘密結社」という扱いが主流 |
1980〜2000年 | 陰謀論的な著作と並行して、学術的・文化史的研究も登場 |
2000年以降 | インターネット普及でより多様な情報が入手可能に、実証的研究も増加 |
現代日本におけるフリーメイソン活動
現在の日本におけるフリーメイソンの活動は、戦前・戦中期のイメージとは大きく異なります。日本には複数のフリーメイソン・ロッジが存在し、定期的な活動を行っています。
日本の主なフリーメイソン組織
- 日本グランドロッジ:日本人会員が中心となって運営
- 在日イギリス系ロッジ:英国の伝統を重視
- 在日アメリカ系ロッジ:米軍関係者が中心
- 国際派ロッジ:様々な国籍の会員が集う
これらのロッジは主に以下のような活動を行っています:
- 定例会合: 月に一度程度、会員同士の交流や儀式を行う
- チャリティ活動: 災害支援や教育支援などの慈善活動
- 文化交流: 日本と海外の文化交流を促進するイベント
- 教育活動: フリーメイソンの歴史や哲学に関する講演会や研究会
現代日本におけるフリーメイソン会員の正確な数は公表されていませんが、数千人規模と推測されています。会員の多くは、国際的なビジネスに関わる実業家、外交官、研究者、芸術家などの専門職が中心と言われています。
日本の国際関係におけるフリーメイソンの役割

現代の日本の国際関係において、フリーメイソンが「組織として」直接的な影響力を持っているという証拠はありません。しかし、個人レベルでのネットワークという観点では、一定の役割を果たしていると考えられます。
具体的には、以下のような側面が挙げられます:
- 「トラック2外交」の場: 政府間の公式外交とは別の、民間人同士の交流や対話の場として機能
- ビジネスネットワーク: 国際的なビジネス関係を構築する上でのつながりの一つ
- 文化交流: 日本文化の海外発信や、海外文化の日本への紹介の場
これらの役割は、フリーメイソンが「秘密裏に」影響力を行使するというよりは、国際社会の中の一つの市民社会組織として機能していることを示しています。
日本と世界のフリーメイソンの関係は、戦前の敵対的な関係から、戦後は相互理解と協力の関係へと大きく変化しました。現在では、グローバル化の進展とともに、日本人会員も増加し、より開かれた組織となっています。
フリーメイソンをめぐる陰謀論や誤解は今も一部に残っていますが、インターネットの普及により正確な情報へのアクセスも容易になり、より客観的な理解が広まりつつあります。戦争とフリーメイソンの関係を検証する上でも、こうした冷静かつ実証的なアプローチが重要であると言えるでしょう。
ピックアップ記事



コメント