アメリカ政治史上最大のスキャンダル:ウォーターゲート事件とは何だったのか
1972年6月17日の未明、ワシントンD.C.のウォーターゲートビル6階。民主党全国委員会の本部がある階で、不審な動きをする5人の男たちがいた。「単なる第三級窃盗事件」として片付けられるはずだったこの出来事が、やがてアメリカ史上初の大統領辞任という前代未聞の結末をもたらすことになるとは、誰も予想していなかった。
「第三級窃盗」から始まった政権崩壊の序章
「こんな小さな事件が、どうして大統領を追い詰めることになったのか?」と思われるかもしれない。実は、この窃盗事件の背後には、予想をはるかに超える権力の乱用と政治的陰謀が隠されていたのだ。
逮捕された5人の侵入者たちは、ただの泥棒ではなかった。彼らの正体は、ニクソン大統領の再選委員会(CRP)と関係のある元CIAエージェントや元FBIエージェントたちだった。彼らは民主党の秘密文書を盗み出し、盗聴装置を設置するという任務を遂行中だったのである。
衝撃の事実:侵入者たちの個人的持ち物
- 大量の100ドル札(約5,300ドル相当)
- ワイヤータッピング(盗聴)機器
- 高性能カメラ
- ホワイトハウス関係者の電話番号が記された住所録
この「普通の窃盗」とは思えない証拠の数々に、ジャーナリストたちは疑念を抱き始めた。特にワシントン・ポスト紙の若手記者ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインは、この事件を追及することになる。
「これは単なる窃盗じゃない、もっと大きな何かがある」彼らの執念深い取材が、やがてアメリカ政治の暗部を白日の下に晒すことになる。
ホワイトハウスの「汚れ仕事人」たちの素顔

ウォーターゲート事件の真相を理解するには、ニクソン政権内部にいた「汚れ仕事人」たちの存在を知る必要がある。彼らは「配管工」(Plumbers)と呼ばれ、政権にとって都合の悪い「漏れ」を修理する役割を担っていた。
その中心人物は、元FBI捜査官のG・ゴードン・リディとホワイトハウス顧問のE・ハワード・ハントだった。彼らは大統領の側近であるジョン・ミッチェル(司法長官からニクソン再選委員会委員長に転身)、ジョン・ディーン(大統領法律顧問)、H・R・ハルデマン(大統領首席補佐官)、ジョン・アーリックマン(国内政策担当補佐官)らの指示を受けていた。
これらの「汚れ仕事人」たちは、以下のような工作活動に関与していたことが後に明らかになる:
- ペンタゴン・ペーパーズを漏洩したダニエル・エルズバーグの精神科医のオフィスへの不法侵入
- 政敵に関する偽情報のリーク
- 政治的対立者への嫌がらせや誹謗中傷キャンペーン
- 選挙資金の不正な運用
彼らの行動は、「目的のためなら手段を選ばない」というニクソン政権の暗黙の了解の下で行われていた。「敵を倒すためなら何でもやれ」という態度は、結果的に政権自体を破滅へと導くことになる。
CRP(ニクソン再選委員会)の秘密工作とは
1972年の大統領選挙に向けて設立されたニクソン再選委員会(Committee to Re-elect the President、略してCRP。皮肉なことに「CREEP」とも呼ばれた)は、表向きは通常の選挙活動を行う組織だった。しかし実際には、様々な「ダーティーな作戦」を実行するための資金と人材を提供する役割も果たしていた。
CRPが関与した工作活動の一例:
工作名 | 内容 | 目的 |
---|---|---|
ラットファッキング(Ratf**king) | 民主党予備選挙への妨害工作 | 対立候補間の分断工作 |
セダン計画 | 民主党全国委員会の盗聴 | 選挙戦略の情報収集 |
「エネミーズ・リスト」の作成 | 政権に批判的な人物のリスト化 | 監視と嫌がらせの対象特定 |
特に問題だったのは、CRPが集めた選挙資金の一部が「秘密資金」として運用され、これら非合法活動の資金源になっていたことだ。ニクソン自身がこの資金の流れを把握していたかどうかは、ウォーターゲート事件の核心的問題となる。
「我々は選挙に勝つためにやっているんだ。勝たなければ何も意味がない」というニクソンの言葉は、彼の政治スタイルを象徴するものだった。しかし「勝つためなら何でもあり」という姿勢は、最終的に自らの首を絞めることになる皮肉な結果を招いた。
ウォーターゲート事件は単なる窃盗事件ではなく、権力の乱用、選挙への不正介入、司法妨害、そして最終的には憲法秩序への挑戦という、アメリカ民主主義の根幹を揺るがす一大スキャンダルだったのである。
ニクソン大統領の栄光と転落:政治家としての軌跡
ウォーターゲート事件の複雑さを理解するには、その中心人物であるリチャード・ミルハウス・ニクソンという人物の背景を知る必要がある。彼はどのようにして権力の座にまで上り詰め、なぜそれを失うことになったのか?その栄光と転落の物語は、アメリカ政治史の中でも最も劇的な一ページを占めている。
貧しい少年からホワイトハウスへ:ニクソンの驚くべき出世物語
1913年1月9日、カリフォルニア州ヨーバリンダの小さな家で生まれたリチャード・ニクソンの生い立ちは、典型的なアメリカン・ドリームの体現だった。貧しいクエーカー教徒の家庭に生まれた彼は、幼い頃から苦労の連続だった。
ニクソンの若き日の苦労
- 家業の食料品店を手伝うため、朝4時に起きて働く毎日
- 二人の兄弟のがんによる早すぎる死(ハロルドとアーサー)を経験
- 経済的理由でハーバード大学の奨学金を辞退し、地元のウィッティア大学へ進学
それでも彼は卓越した知性と不屈の精神で道を切り開いていった。ウィッティア大学では学生会長を務め、デューク大学ロースクールでは首席で卒業。第二次世界大戦では海軍に従軍した後、1946年に地元選出の連邦下院議員として政界入りを果たす。
彼の政治的台頭は驚異的なスピードで進んだ。1950年には上院議員に当選し、わずか39歳でアイゼンハワー大統領の下で副大統領に選ばれた。「私は汗をかいて成功した男だ」というニクソンの言葉は、彼の人生を象徴している。
そして1968年、ついに彼は大統領選挙で勝利を収め、アメリカ合衆国第37代大統領に就任する。「私はアメリカに団結をもたらす」という彼の言葉に、多くのアメリカ人が希望を見出した。
冷戦の立役者と「トリッキー・ディック」の二面性
ニクソン大統領の在任期間(1969年〜1974年)は、彼の政治的才能と性格的弱点の両面が顕著に表れた時期だった。外交政策においては、彼は冷戦時代の重要な局面で卓越した手腕を発揮した。

「ニクソン・ドクトリン」と呼ばれる外交政策は、ベトナム戦争の「名誉ある撤退」を実現し、同時に共産主義陣営との緊張緩和(デタント)を推進した。「平和のための外交」を掲げたニクソンは、国際政治の舞台で重要な足跡を残した。
一方で、国内政治では「トリッキー・ディック」と揶揄される側面も持ち合わせていた。彼は政敵に対して激しい敵意を抱き、勝利のためには手段を選ばない姿勢で知られていた。特に「リベラル・エスタブリッシュメント」と彼が呼ぶ東部エリート層や、反戦運動家たちへの敵意は強かった。
ニクソンの二面性
「外交の巨匠」としての側面 | 「トリッキー・ディック」としての側面 |
---|---|
中国との関係正常化 | 「敵のリスト」の作成と監視 |
ソ連との核軍縮交渉 | メディアへの敵対的態度 |
中東和平への取り組み | 反対派への盗聴や嫌がらせ |
環境保護庁(EPA)の設立 | 権力の乱用と司法妨害 |
「私の敵は私を理解していない。私はいつでも反撃する準備ができている」というニクソンの言葉は、彼の闘争的な性格を表している。この性格がウォーターゲート事件での彼の対応に大きく影響することになる。
歴史に残る中国訪問と「平和の功労者」としての側面
1972年2月、ニクソン大統領は歴史的な中国訪問を実現した。「一週間で世界を変えた」と称されるこの訪問は、20年以上にわたって断絶していた米中関係を一気に転換させる画期的な出来事だった。
「長い旅は一歩から始まる」という毛沢東の言葉を引用しながら、ニクソンは冷戦構造の中で新たな地政学的チェスゲームを展開した。ソ連を牽制するための「中国カード」を切ったニクソンの戦略は、国際政治の教科書に載るほどの外交的成功だった。
中国訪問の成功に続いて、ニクソンはソ連とも戦略兵器制限交渉(SALT I)を実現。「平和の功労者」としての評価が高まり、1972年の大統領選挙では圧倒的勝利を収めた。
皮肉なことに、この輝かしい外交的成果を挙げていた同じ時期に、ウォーターゲート・ビルへの侵入事件が起きていたのである。最も偉大な外交的成果と最悪の政治スキャンダルが、同じ大統領の下で並行して進行していたという事実は、ニクソンという人物の複雑さを象徴している。
「私は平和を愛している。だからこそ強くあらねばならない」というニクソンの言葉は、彼の外交哲学を表していた。しかし、国内政治においては「強さ」が権力の乱用へと変質してしまった。彼の政治的遺産は、輝かしい外交的成果とウォーターゲート・スキャンダルという暗い影の両方によって、永遠に複雑なものとなったのである。
「録音テープ」が明かす真実:ホワイトハウスの密室での会話
ウォーターゲート事件の最も衝撃的な展開は、ホワイトハウス内の会話が秘密裏に録音されていたという事実が明らかになった時だった。これらの「ニクソン・テープ」は、スキャンダルの核心部分を解明する決定的な証拠となり、最終的にニクソン大統領の命運を決することになる。
大統領執務室の秘密録音システムの実態
1971年2月、ニクソン大統領は歴史家のために自分の大統領としての活動を記録するという名目で、ホワイトハウス内の主要な場所に録音システムを設置するよう指示した。実際には、彼は部下や訪問者との会話を自分だけが知っている状態で記録し、後に政治的に利用するつもりだったのだろう。
録音システムが設置された場所
- 大統領執務室(オーバル・オフィス)
- キャビネット・ルーム(閣議室)
- リンカーン・シッティングルーム
- 大統領専用執務室(EOB:Executive Office Building)
- キャンプ・デービッド
- ホワイトハウスの電話システム
この録音システムの存在は極秘とされ、ニクソン本人、側近のハルデマン、アーリックマン、そして技術担当のごく少数のスタッフだけが知っていた。システムは音声起動式で、オーバル・オフィスに誰かが入ると自動的に作動する仕組みだった。「壁に耳あり」という言葉通りの状況が、皮肉にもアメリカ民主主義の象徴であるホワイトハウスで実現していたのである。
「私は後世のために正確な記録を残したいだけだ」とニクソンは後に弁明しているが、実際には会話の相手を出し抜くための武器として録音を利用していた形跡がある。例えば、国務長官キッシンジャーとの会話を録音し、それを他の閣僚との交渉に利用するなどの事例が確認されている。
決定的証拠となった「18分間の空白」の謎
1973年7月、ホワイトハウスでの録音の存在がウォーターゲート特別委員会の公聴会で明らかになった時、アメリカ中が震撼した。特別検察官アーチボルド・コックスはすぐにこれらのテープの提出を要求。長い法廷闘争の末、ニクソンは一部のテープを提出することに同意した。
しかし、決定的に重要だったテープの一つ—1972年6月20日のもの(ウォーターゲート侵入事件の3日後)—には、なんと18分30秒の「空白」があることが発覚した。この会話はニクソンと側近のハルデマンの間で交わされたもので、おそらくウォーターゲート事件への初期対応について話し合われていたはずだった。
この「空白」について、ホワイトハウスは大統領の秘書ローズマリー・ウッズが「誤って消去してしまった」と説明した。しかし技術専門家の分析により、この消去は少なくとも5回以上に分けて意図的に行われたものであることが判明。「18分間の空白」は、ニクソン政権による証拠隠滅の象徴となった。
「18分間の空白」をめぐる疑問点
- 消去されたのは偶然にも最も重要な会話部分だけ
- 専門家によれば、「誤って」このような消去をするのは物理的に不可能
- 消去には特殊な機器が使用された形跡がある
- 空白部分の前後の会話は明らかにウォーターゲートに関するもの
「私はテープの内容について何も知らない」というニクソンの弁明は、次第に空虚に響くようになっていった。「18分間の空白」は、ニクソン政権の隠蔽工作の象徴として歴史に刻まれることになる。
テープから聞こえる「ニクソンの素」:権力者の素顔
実際に公開されたテープからは、公の場では決して見ることのできないニクソンの素顔が明らかになった。公式会見での慎重で威厳ある大統領像とは裏腹に、テープに記録されたニクソンは粗野な言葉遣いで政敵を罵り、ユダヤ人やアフリカ系アメリカ人に対する差別的発言を繰り返し、権力の乱用を平然と指示する姿が記録されていた。
特に衝撃的だったのは、1972年6月23日の録音(後に「スモーキング・ガン・テープ」と呼ばれる)だ。このテープでニクソンは、CIAに圧力をかけてFBIのウォーターゲート捜査を妨害するよう指示している。この会話は、明白な司法妨害の証拠となった。
スモーキング・ガン・テープの衝撃的内容(一部抜粋)

ニクソン:「FBIに言うんだ。大統領が—国家安全保障上の理由から—この捜査はここで打ち切るべきだと考えていると」
ハルデマン:「了解しました。CIAにFBIを止めさせます」
ニクソン:「そう、国家安全保障だ。それ以上は聞くな、と」
この指示は明らかに司法妨害に当たるもので、ニクソン自身がウォーターゲート事件の隠蔽工作に直接関与していたことを示す決定的証拠となった。
テープには他にも、政治資金の不正流用、IRS(内国歳入庁)を使った政敵への嫌がらせ、FBIの捜査妨害など、数々の不正行為の指示や承認が記録されていた。「私は大統領だ。大統領がやれば合法なのだ」というニクソンの発言は、彼の権力観を如実に表している。
これらのテープが公開されるにつれ、アメリカ国民はその大統領の真の姿に幻滅していった。公人としてのニクソンと、テープに記録された私人としてのニクソンのあまりにも大きな乖離が、彼に対する国民の信頼を決定的に損なうことになったのである。
皮肉なことに、自らの言動を記録するために設置した秘密録音システムが、最終的にニクソン自身の政治生命を絶つことになった。「記録は残る」という普遍的な警句を、彼ほど痛切に体験した政治家はいないだろう。
メディアと政治:ワシントン・ポスト紙の執念と「ディープ・スロート」の正体
ウォーターゲート事件は、アメリカのジャーナリズム史においても特筆すべき章を刻んだ。権力の腐敗を暴き出す「番犬」としてのメディアの役割が、この事件ほど鮮明に示された例は少ない。特にワシントン・ポスト紙の若手記者たちの執念深い取材活動は、「調査報道」の金字塔として今日も語り継がれている。
ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインの執念の取材
1972年6月17日、ウォーターゲート・ビルでの侵入事件が地元紙に小さく報じられた時、多くのメディアはそれを「単なる窃盗事件」として片付けた。しかしワシントン・ポスト紙の都市部デスク、ハワード・シモンズは、この事件に何か異常なものを感じ取り、二人の若手記者にこの事件の追跡取材を命じた。
ボブ・ウッドワード(29歳)とカール・バーンスタイン(28歳)——この二人の名前は、後にジャーナリズムの教科書に必ず登場することになる。彼らは「ウッドスタイン」というニックネームで呼ばれるほど、息の合った取材チームを結成した。
ウッドスタインの執念深い取材手法
- 電話帳を片っ端から調べ、関係者に電話をかけまくる
- 関係者の自宅を深夜に訪問し、「すでに他の人が話している」と伝える心理作戦
- メモ書きや小切手の番号から資金の流れを追跡
- 何百人もの人々への地道なインタビュー
「徹底的な裏取りなしには記事にしない」という彼らの信条は、今日のジャーナリズム教育でも基本中の基本として教えられている。彼らは400以上の記事を書き、その多くはワシントン・ポスト紙の一面を飾った。
ワシントン・ポスト紙の勇気ある報道姿勢も特筆に値する。編集主幹のベン・ブラッドリーと発行人のキャサリン・グラハムは、ホワイトハウスからの激しい圧力や脅迫にもかかわらず、若手記者たちの背中を押し続けた。
「彼らは私たちを狂人扱いした。嘘つき呼ばわりした。しかし私たちは確信があった」とバーンスタインは後に語っている。当初は「陰謀論」と揶揄されたポスト紙の報道は、次第にその正確さが証明されていくことになる。
30年以上秘密にされた内部告発者「ディープ・スロート」の正体
ウッドワードとバーンスタインの報道を支えた最大の情報源が、「ディープ・スロート」という匿名の内部告発者だった。彼の存在は、1974年に出版された『大統領の陰謀』(All the President’s Men)で明らかにされた。
「ディープ・スロート」という奇妙なコードネームは、当時話題だったポルノ映画のタイトルから取られたもので、バーンスタインのアイデアだった。この匿名の情報提供者との接触方法も、まるでスパイ映画のようなものだった。
ディープ・スロートとの接触方法
- ウッドワードのアパートのバルコニーに赤い旗(植木鉢)を置くとコンタクト希望のサイン
- 午前2時、ワシントン郊外の地下駐車場で会う
- 会話の内容はメモを取らない
- 質問には「Yes」「No」で答えるか、沈黙で返す
「暗闇に従え(Follow the money)」という有名なアドバイスを含め、ディープ・スロートの情報提供がなければ、ウォーターゲート事件の全容解明はさらに困難だっただろう。
しかし、この重要情報源の正体は、実に33年間にわたって秘密にされた。2005年7月、『ヴァニティ・フェア』誌の記事で、ついにその正体が明かされる。ディープ・スロートは、当時FBIの副長官だったW・マーク・フェルトだったのだ。
FBI副長官マーク・フェルトが告発に至った真の動機
なぜFBIのナンバー2であるフェルトは、機密情報をジャーナリストに漏らすという危険な行為に出たのか?この問いへの答えは、単純な「正義感」だけでは説明できない複雑なものだった。
フェルトの動機を理解するためには、当時のFBIを取り巻く状況を知る必要がある。1972年5月、FBI長官J・エドガー・フーバーが死去。フェルトは次期長官の最有力候補と目されていたが、ニクソンはFBIに対する政治的影響力を強めるため、局外から側近のパトリック・グレイを暫定長官に任命した。
フェルトの考えられる動機
- 法の支配を守るという職業的倫理観
- FBIの独立性と捜査の完全性を守るための闘い
- 長官ポストを逃したことへの個人的な恨み
- ホワイトハウスによるFBI捜査への政治的介入への反発
「FBI捜査への政治的介入は許されない」というフェルトの信念は、彼をして権力の中枢に対する「内部告発」という極めて危険な行動に駆り立てた。彼が漏らした情報の多くは、FBI内部の捜査情報だった。

フェルト自身は、2005年に正体が明らかになった後も、自分の行動の動機について明確に語ることはなかった。2008年に95歳で死去するまで、彼は「国家と憲法を守るため」という説明に終始した。
「私はスパイではない。愛国者だ」というフェルトの言葉は、内部告発者(ホイッスルブロワー)が常に直面する道徳的ジレンマを象徴している。職業的忠誠と、より高次の倫理的責任のはざまで、彼は後者を選んだのである。
ディープ・スロートの存在とその長年にわたる謎は、ウォーターゲート事件に政治スリラーとしての魅力を加え、この事件が今日まで人々の関心を引きつける一因となっている。匿名の内部告発者と若手記者たちによる権力の腐敗への挑戦という物語は、民主主義における「第四の権力」としてのメディアの理想的な役割の一例として、今日も語り継がれているのである。
司法との対決:大統領特権をめぐる憲法的闘争
ウォーターゲート事件は、単なる政治スキャンダルを超えて、アメリカ憲法体制の根幹に関わる問題へと発展した。三権分立の原則の下で、大統領権限はどこまで及ぶのか?行政府の長である大統領は、司法の捜査からどこまで「特別」な扱いを受けられるのか?これらの根本的な憲法問題が、ウォーターゲート事件を通じて問われることになった。
最高裁判所が下した歴史的判断「ユナイテッド・ステーツ対ニクソン」
ウォーターゲート事件の捜査が進むにつれ、ホワイトハウスの録音テープが決定的証拠として重要性を増していった。1973年10月、特別検察官アーチボルド・コックスはこれらのテープの提出を裁判所に要請。ニクソンはこれを拒否し、「大統領特権」(Executive Privilege)を主張した。
「大統領特権」とは、大統領とその側近の会話や文書が裁判所や議会からの開示要求から保護されるという概念である。ニクソンは「国家安全保障」と「率直な意見交換の保護」を理由に、テープの提出を拒否した。
このテープをめぐる攻防は、最終的にアメリカ合衆国最高裁判所まで持ち込まれた。1974年7月24日、最高裁は「ユナイテッド・ステーツ対ニクソン」事件で全会一致(8-0)の判決を下した。
最高裁判決の核心部分
- 大統領特権は確かに存在するが、絶対的なものではない
- 刑事司法の公正な運営という要請は、一般的な大統領特権の主張に優先する
- 国家安全保障に関わる事項については追加的保護があり得るが、本件はそれに当たらない
- 大統領はテープを提出する義務がある
この判決は、「法の支配は万人に適用される」というアメリカ立憲民主主義の基本原則を再確認するものだった。最高裁長官ウォーレン・バーガー(ニクソン自身が任命した保守派判事)によって書かれた判決文には、こう記されている:
「我々の司法制度における基本的な要求は、すべての市民が証拠を提出する義務を負うということである。国家元首であっても例外ではない」
この判決が出されてわずか16日後、ニクソンは「スモーキング・ガン・テープ」を公開せざるを得なくなった。そこには、彼自身がウォーターゲート事件の隠蔽工作に関与していたことを示す決定的証拠が含まれていた。三権分立の原則に基づく司法の独立性が、大統領権力の乱用に対する最後の砦として機能したのである。
特別検察官の解任「土曜日の夜の虐殺」とその余波
ニクソン政権と特別検察官の間の闘いは、1973年10月20日に劇的な展開を見せる。ホワイトハウスの録音テープ提出を執拗に要求していた特別検察官アーチボルド・コックスに対し、ニクソンは彼の解任を命じたのである。
この出来事は「土曜日の夜の虐殺」(Saturday Night Massacre)と呼ばれ、以下のような衝撃的な連鎖反応を引き起こした:
- 司法長官エリオット・リチャードソンは、コックスの解任命令を拒否して辞任
- 副司法長官ウィリアム・ラックルスハウスも同様に拒否して辞任
- 司法省序列3位のロバート・ボークがついに解任命令を実行
一晩のうちに司法省トップ2人が辞任し、特別検察官が解任されるという前代未聞の事態に、アメリカ国民は激しく反発した。「独立した検察官が大統領に解任されるなど、アメリカは独裁国家ではない」という声が上がり、ホワイトハウスには45万通を超える抗議の電報が届いた。
この「土曜日の夜の虐殺」による国民の怒りは、ニクソン政権への最後の信頼を決定的に損なった。世論の圧力に屈したニクソンは、すぐに新たな特別検察官レオン・ジャウォースキーを任命せざるを得なくなった。皮肉なことに、ジャウォースキーはコックス以上に強硬な姿勢で捜査を進め、最終的にはニクソンを訴追する方針を固めるに至る。
「土曜日の夜の虐殺」の主な影響
- 世論調査でのニクソン支持率が27%まで急落
- 弾劾手続き開始への機運が一気に高まる
- 「大統領は法の上に立てるのか」という憲法的議論の活発化
- 特別検察官制度の重要性についての認識向上
「私は大統領であり、犯罪者ではない」というニクソンの有名な言葉は、この事件の後に発せられたものだった。しかし、アメリカ国民の多くは、彼がすでに両方になってしまったと考え始めていた。
議会の弾劾審議と辞任の決断
1974年初頭、下院司法委員会はニクソン大統領に対する弾劾審議を正式に開始した。憲法によれば、大統領の弾劾は「反逆罪、収賄罪、その他の重罪および軽罪」に基づいて行われる。下院司法委員会は以下の3つの弾劾条項を検討した:
- 司法妨害:FBI捜査への妨害、証拠隠滅、偽証の教唆など
- 権力の乱用:IRS(内国歳入庁)や連邦捜査機関の政治的利用
- 議会侮辱罪:議会の召喚状への不服従
1974年7月27日〜30日、下院司法委員会は3つの弾劾条項すべてを採択。特筆すべきは、共和党議員の多くもニクソンに対する弾劾に賛成票を投じた点だ。
弾劾条項の投票結果
弾劾条項 | 賛成 | 反対 | 党派横断的支持 |
---|---|---|---|
司法妨害 | 27 | 11 | 共和党6名が賛成 |
権力の乱用 | 28 | 10 | 共和党7名が賛成 |
議会侮辱罪 | 21 | 17 | 共和党2名が賛成 |
下院本会議での投票も確実に通過し、上院での裁判に進むことはほぼ間違いない状況だった。ニクソンの最後の希望は、共和党が多数派を占める上院で有罪評決(上院議員の3分の2の賛成が必要)を避けることだった。
しかし8月5日、「スモーキング・ガン・テープ」が公開されると、状況は一変した。このテープで、ニクソン自身がウォーターゲート事件発生の直後から隠蔽工作に関与していたことが明確になった。共和党上院議員バリー・ゴールドウォーターらが、上院での弾劾裁判では確実に有罪になるとニクソンに伝えた。

「私の支持基盤は崩壊した」とニクソンは側近に漏らした。彼が取り得る選択肢は二つしかなかった—弾劾によって追放されるか、自ら辞任するか。いずれにせよ、その政治生命は終わりを迎えていた。
1974年8月8日夜、ニクソンはテレビ演説で辞任を表明。翌9日正午、彼はアメリカ史上初めて辞任した大統領となった。ヘリコプターでホワイトハウスを後にする際、彼は有名な「勝利」のVサインを掲げた。戦いに敗れながらも、最後の尊厳を示そうとしたのだろうか。
「私は国民のために道を開く」と述べたニクソンだったが、実際には彼は自らの行動によって自分自身の道を閉ざしてしまったのである。憲法の試練は終わり、制度は機能した。権力の乱用に対する法の支配の勝利であり、アメリカ立憲民主主義の強靭さを示す歴史的瞬間だった。
ウォーターゲート後の世界:政治と社会への長期的影響
ニクソン大統領のヘリコプターがホワイトハウスの芝生から離陸した瞬間、ウォーターゲート事件は「終わった」と多くの人が考えた。しかし実際には、この事件の影響は今日まで続いている。制度改革から政治文化、社会全体の権威に対する見方まで、ウォーターゲート事件はアメリカ社会に深い傷跡を残した。その長期的影響を理解することは、現代政治を理解する上でも重要な視点を提供している。
「-ゲート」と呼ばれるようになった政治スキャンダルの系譜
ウォーターゲート事件の最も表面的な影響の一つは、言語的なものだった。「-ゲート」という接尾辞は、あらゆる政治的スキャンダルを表す普遍的な用語として定着した。小さな事件から大きな国際的スキャンダルまで、「-ゲート」を付ければすぐにスキャンダルと認識される言語現象が生まれたのである。
「-ゲート」で終わる主な政治スキャンダル
- イランゲート(レーガン政権下の武器密輸スキャンダル)
- モニカゲート(クリントン政権下の不適切な関係スキャンダル)
- クリーブランドゲート(UKのデータ改ざんスキャンダル)
- ブリッジゲート(NJ州知事のハイウェイ閉鎖スキャンダル)
- デフレートゲート(NFLのボール空気圧スキャンダル)
この言語現象は世界中に広がり、日本でも「モリカケゲート」などの表現が使われるようになった。元々はワシントンD.C.の建物の名前に過ぎなかった「ウォーターゲート」が、政治的腐敗の象徴的な言葉となったのである。
しかし、この接尾辞の氾濫は、一部の批評家からは「スキャンダルの矮小化」につながるとの批判も受けている。あらゆる問題に「-ゲート」を付けることで、本来のウォーターゲート事件が持っていた憲法的危機としての深刻さが薄れてしまう危険性があるからだ。
「真のウォーターゲートは憲法秩序への挑戦だった。今日の『何々ゲート』のほとんどは、その重みに見合わない」というベン・ブラッドリー(ワシントン・ポスト紙元編集主幹)の言葉は、こうした懸念を表している。
アメリカ国民の政治不信と「大統領は嘘つき」という遺産
ウォーターゲート事件がアメリカ社会に残した最も深い傷は、政府や指導者に対する国民の信頼の喪失だろう。1958年には、アメリカ人の約75%が「ほとんどの場合、連邦政府を信頼している」と答えていた。しかしウォーターゲート事件後の1976年には、その数字は33%にまで急落した。
この「信頼の崩壊」は一時的なものではなく、長期的なトレンドとなった。今日でも、連邦政府を信頼するアメリカ人の割合は20%前後と低い水準にとどまっている。ウォーターゲート以前のアメリカ人は「大統領が嘘をつく」という考え自体に衝撃を受けていたが、今日では政治家の発言に対する懐疑は当然の姿勢となっている。
ウォーターゲート後の政治不信の表れ
- 投票率の低下(特に若年層)
- シニカルな政治風刺の流行
- 「アウトサイダー」候補への支持増加
- 陰謀論の広がり
- メディアの政治報道の変化(敵対的姿勢の強化)
「ウォーターゲート事件以前、アメリカ人は政府に対して子どものような信頼を持っていた。ウォーターゲート後、我々は懐疑的な大人になった」というジャーナリスト、テッド・コッペルの言葉は、この変化を象徴している。
この政治不信は、皮肉なことに民主主義にとって良い面と悪い面の両方をもたらした。一方では権力者に対する健全な懐疑が強まり、監視機能が強化された。他方で極端な不信感は、政治参加の低下や極端な政治的分断につながる側面も持っていた。
現代のメディアと政治のパラドックス:透明性と監視の強化
ウォーターゲート事件後、アメリカでは政治の透明性を高める様々な改革が行われた。1978年の「倫理法」(Ethics in Government Act)は、高官の資産公開を義務付け、利益相反を規制した。選挙資金改革、情報公開制度の強化、ロビー活動の規制なども進んだ。
また、行政府への監視を強化するための様々な制度が整備された:
- 特別検察官制度:司法省から独立した捜査を可能に(1999年に失効)
- 監察総監制度:各省庁内部に独立した監視機関を設置
- FISA裁判所:国家安全保障に関わる監視活動への司法審査を強化
- 議会の監視委員会:情報機関や行政府への監視機能強化

「権力は監視されなければ腐敗する」という古い格言は、ウォーターゲート後のアメリカ政治制度改革の指針となった。
メディアの世界でも大きな変化が起こった。ウォーターゲート事件の「英雄」となったジャーナリストたちの活躍に触発され、「調査報道」(Investigative Journalism)が急速に発展。政治家の私生活や倫理問題に対する報道も厳しさを増した。
ウォーターゲート後のメディアの変化
- ジャーナリズム学校への志願者急増(「ウッドワード・バーンスタイン効果」)
- 調査報道部門への投資増加
- 匿名情報源の活用増加
- 政治家の私生活への踏み込んだ報道
- 対立的・敵対的な政治取材スタイルの発展
しかし、これらの変化は新たなパラドックスも生み出した。メディアの監視機能が強まる一方で、政治家たちは情報統制にさらに敏感になり、「言葉の管理」「イメージ操作」「スピン・コントロール」などの手法を発達させた。より透明性が求められるほど、政治家たちはより計算された姿だけを見せるようになったのである。
「ウォーターゲート以前、記者たちはケネディの女性関係を報じなかった。ウォーターゲート以後、彼らはそれしか報じなくなった」という皮肉な見方もある。本質的な政策議論よりも、スキャンダルや人格攻撃に焦点を当てる政治報道の傾向は、ウォーターゲート後に強まったとの批判もある。
デジタル時代に入り、このパラドックスはさらに複雑化している。WikiLeaksやSNSによる情報拡散は、かつてないほどの透明性をもたらす一方で、「フェイクニュース」や情報操作の問題も生み出している。ウォーターゲート事件が投げかけた「権力と監視」「真実と嘘」の問題は、形を変えながら今日も続いているのである。
リチャード・ニクソンという一人の大統領の失脚は、単なる個人の悲劇を超えて、アメリカ民主主義の根本的な変容をもたらした。皮肉なことに、権力の乱用を試みたニクソンの行動は、結果的に権力への制約と監視を強化することにつながったのである。「歴史は繰り返す」という格言があるが、ウォーターゲート事件の教訓を忘れないことが、その繰り返しを防ぐ最良の方法なのかもしれない。
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